福生の歴史
江戸時代の福生
福生分水は玉川上水最上流の分水です。この分水は、現在も田用水の水として活用されています。
中央右側は拝島駅です。玉川上水の本流のほかに、旧堀(みずくらいど)がはっきり確認出来ます。
江戸時代になると福生村は幕府領、熊川村は幕府領と旗本領として支配され、幕末まで 続きます。熊川内出地区を知行したのは旗本田沢氏、熊川鍋ヶ谷戸地区を知行したのは旗本長塩氏で、ともに甲斐武田氏の家臣でした。田沢氏の墓は真福寺に、長塩氏の墓は福生院にそれぞれ残されており、双方とも福生市指定史跡です。
承応二年(1653)には玉川上水が開削されます。『玉川上水起元並野火留分水口之訳書』(上水起元)という江戸時代の書物に、玉川上水開削時のことが記されています。これによると二度の開削失敗のあと、羽村から多摩川の水を取り入れ玉川上水は完成したと伝えています。一度目は、現在の国立市青柳付近からの取り入れに失敗しました。そして二度目の失敗は福生から水を引き込みましたが、熊川で地中に水が吸い込まれてしまい失敗したといいます。このことから後に「みずくらいど」の伝承が生まれました。玉川上水の五丁橋の下流には、当時の失敗した堀跡が現在も残されています。ここが「みずくらいど」の跡地であり、福生市指定史跡として保存されています。